ふと、目の前で信号待ちをしている妹を見かけた。彼女の小さな背中を見て、俺は殺してやりてえなあと思う。俺が市閑家だった頃の両親が刃物で殺られたように、こいつも刺したら死ぬだろうか。いや、駄目だろう。この前も料理をしてみようかと包丁に指先を触れさせたら、直ぐにどうしようもなく汗ばんだ。速くなった鼓動が全身を使って忌々しい存在を拒絶していた。

 カッターもハサミも苦手だ。握れないことはないがその分脳も嫌がる。拳銃はどうだろう。オモチャしか触れたことがない。異法行為をしてまで手に入れたいとは思わない辺り、これからも手にする機会はなさそうだ。薬の類も同様だろう。首絞めも無理だ。何度も自分の喉元に手をかけては、入りきらない力に諦めている。突き飛ばしてやろうかと相手に手を伸ばしてみるものの、事件の余韻につられて躊躇ってしまう。

 結局はどんな手段を持ってしてもいい訳並べてやめてしまうのだ。他者による殺人を怖れ、それが招く心理崩壊を怖れ、どうしようもない。トラウマというやつはなんて厄介だろう。俺の意志すら狂わせようとしてくる。もし俺が直接的に殺せるような奴だったら、今頃連続殺人犯として追われる身になっていたかもしれない。願い想像するだけで笑みすら浮かんでくるのに、やっぱり現実は上手くいかねえもんだ。

 彼女も現実に不自由している。七実むつと、という名を持つ三つ下のそいつは、俺にとって最初の家族で最後の妹だ。

「むつと」は少し壊された。いじめが原因で言葉を嫌い、口を閉ざすことを選んだ。

「妹」は唯一壊れてない家族と言えよう。後はもうどれも崩壊している。


 最初の七実家は、妹が物心付く前に両親の仲が悪くなって終わった。余所で子供を作った父となり振り構わない母の、怒鳴り声を一年程聞かされたものだ。妹は泣いて、俺はかき消すようにゲームをやって、ただ時を過ごすことしかできない。耳を塞ぐことも、誰かに相談することも叶わない状況で、皆で仲良く暮らすというのは無理に等しかった。

 暗くなった俺の手を引いて七実家を出た母が凡そ一年後に再婚して、次の市閑家だ。七年はそれなりの平穏を楽しめた。突然やってきた男に惨殺されるまでは。

 その日は再婚相手の二番目の弟家族も来ていて、大人は全員ナイフに刺されて死んだ。残された子供二人はそいつに欲情され、震える俺は後回しにしてやると頭を撫でられ、もう片方が抵抗の最中触られていった。夢中になっている隙に逃げた俺は、通行人に頼んで警察を呼んでもらった。捕まった殺人犯の動機は、失敗による逆恨みだったという。

 子供は生き残ったけど、精神はしばらくどっかにいっちまったまま。何よりも空虚を見つめるだけの片方はどこかの施設に送られ、俺は一番目の弟に引き取られた。波事要哉となった俺は、与えられた住処と金と学校生活を持て余すだけの人生を無意味に過ごしている。

 皆自分勝手に行動して、最後は壊す。それだけの世界だ。両親は勝手に意見を押し付けて別れ、殺人犯も勝手に行動した。俺も勝手に落ち込み、勝手に生き辛くなっている。

 白と黒の空間で、慰めもせず気まずそうに目を逸らしただけの周りが嫌いになった。余所余所しく声をかけてくるクラスメイトを突き離したらあっさり消えた。付き合っていた女は馬鹿みたいだと笑って終わろうとしたから仕返しをしてやった。転校先は馴染めず、息が詰まる毎日を送るだけ。


(壊れるだけの世界の良さなんてもんが分かる訳ねえだろ)


 生きる事の意味なんてもう妹を殺すことだけ。生きている喜びなんて偶然妹を発見した時しか身に覚えがない。迷子のように彷徨い、たまたま入った水族館で鯰を眺めていたこいつに気付いた時の泣きたくなるような嬉しさはあの瞬間以外味わえない気がする。十三年ぶりとなった再会は、思い出すだけでも顔が綻ぶほどのものだった。

 喋っても痛みを与えるだけだから嫌いなんだ、という妹の嘆きから言葉を借りて、思う。


(ぶっ壊れてまで生きるより、死んで笑う方が痛まなくて済むだろ?)


 妹を置いて逝く気はない。俺がやらなきゃ誰がこいつを解放するっていうんだ。

 瞳を歪ませ、ニヤリ、と笑ったのがまるで合図にでもなったかのように、むつとが振り返った。信号が赤から青に変わって渡れるようになったものの、気にも留めずに俺を見つめてくる。

「お兄ちゃん」

「おっと? 気付かれちまったな?」

 残念と溜息を吐くものの、元々成功の見込みはなかった分拘りもない。

「何してたの?」

「お前を突き飛ばそうとしてたな?」

「……殺そうとしても無意味だよ。簡単に死ぬ人間なんて一握りだけだ」

 むつとは警戒心を交えて睨んでくる。吐かれた台詞が正論過ぎて、俺は笑っちまう。

 身に覚えがある、とは思っても口には出さない。命を粗末にするなとよく分かりもしない奴から怒られるのは、飛び降り自殺が失敗した後のあの時だけで十分だ。分かるきっかけもないから分かり得ないのであり、教えを説いても時間の無駄にしかならない。

 そこまで考えて、ふと気付く。


(こいつは分かってる方だから言えるのか……?)


 死ねなかった人間を見て来たのか、それとも自分がそうだったのか。何れにせよ壊れるだけの世界であり続けているのは確かで、呆れてしまう。だから。

「殺したくなるんだよ」

 手を伸ばすと緊張感で僅かに顔を歪めたのが見て取れた。俺は滑稽な抵抗に小さな笑いを洩らしてから、指で銃の形を作ってむつとの額に当てる。


(銃、手に入れてみるべきかねえ)


 思っていても、表には出さず別の言葉を吐く。

「死神はいつも近くにいるんだぜ?」


(魂はいつ切り離せるか分からねえけどな)


 手を下ろすことしかできない自分に情けなさを覚える。実行できない分だけ死から遠ざかっているが自業自得と言えよう。厄介な拒絶反応に隔てられ、やめてしまうから見込みもない。死に急ぐ用事がないからと、今日も無駄に二酸化炭素を吐いて終わるのだろう。

 死にたがりと第三者は思うかもしれない。俺からしてみりゃ少し違う。実際は生きる理由も死ぬ理由もない。生が絶望で死が希望だと思っているだけだ。裏切るだけの人間と付き合って行きたいとも思えねえ上に、特別楽しいと思える状況もない。破壊衝動というより、壊されるから壊している。簡単に脆く崩れるのが見ていて面白い。それだけだ。

「死神、ね」

 妹は呆れるように溜息を吐いた。

「諦めきれないのなら一緒に死んでみる?」

 不意に繋がれた手に俺は目を瞬かせることしかできない。一部分から伝わる温もりに違和感すら覚えてくる。ただ、言われたことだけは賛同できた。想像するだけでも幾分心が穏やかになる。

 自然と零れた笑みに、むつとは何か言いたげな表情をした。我慢する様に瞬きを繰り返してから、じっと見上げて俺の反応を待ち始める。信号が赤に戻り、停止していた車が動き出す。

「いいけど、死ねるか?」

 訊ねてみると妹は僅かに俯き、考えるような素振りを見せる。今度は俺が待つ番だ。死にたくないと言われるかもしれない。今までも勝手に殺すなと思っていただろう。


(そのまま生きるのが本当に幸せか?)


 度々会いに行った日々を思い返すと、こいつは一人でいることが多かった。一定の規則がある行動と、変わりのない喋りたがらなさ。よくある青春を謳歌しているという状況に、この妹が当てはまっているとは到底思えやしなかった。


(嫌うほど痛みを抱えて、それでも生きなければいけない状況は、本当に幸せか?)


 むつとはゆっくりと首を振る。

「……痛いばかりの人生でも、やっぱり死ねないと思う」

 顔を上げ、真っ直ぐに俺の目を見た。

「痛くない、嬉しくなる瞬間もある。そういうの見つけて手に入れることを、諦めちゃ駄目だと思う」

 笑っちまうような言葉を投げかけられる。

「そんな壊れやすいものを信じろと?」

 手にしたところで壊れるとしたら、どう壊れていくかを楽しむことしかできないだろう。そんな可笑しい楽しみを信じて生きて行けと言いやがる。むつとも含め、他の奴らがどう楽しんで生きているかなんて俺は知らねえ。どう楽しんでいたかも、もう忘れちまった。

 むつとは瞳を揺るがせない。少しも動くことなく、はっきりと言いきった。

「壊れないものだってある」

 そんなものがあったら是非とも見てみたい。

「例えば?」

「……少なくとも私は壊れない」

 信号が青に変わった。むつとは俺の手を引いて歩き出す。


(小さい手と身体で何を言ってるんだか)


 溜息を洩らしつつ、僅かな好奇心を向けてみる。

「本当に壊れないのかよ?」

「うん」

 保障もないのにむつとは即答した。

「根拠は?」

「壊れてたら、今頃お兄ちゃんと手を繋ぐ私すらいなかったと思う」

 特に害が訪れることもなく歩道を渡りきる。立ち止まったむつとは、手を繋いだまま真正面に俺と向き合った。

「殺したいのなら、飽きるまで殺そうとしてみればいい。私も飽きるまで生の快さを教え続ける。……負けないよ」

 ひびも濁りもない妹の瞳に俺は苦笑する。本当に俺の勘違いでしかなくて、こいつが全く壊されてなかったとしたら、少しぐらいは信じられるかもしれない。

「俺も負けねえ」

 少し迷いが混じってしまったことは、鯰にすら秘密にしておこう。


 了